ガブリエル・マルセル

鷲田清一氏の「生の交換、死の交換」を読み、ガブリエル・マルセルのことがとても気になりだした。

 身体性は、存在〔あること〕と所有〔もつこと〕の境界ゾーンである。あらゆる所有は、何らかのかたちで、わたしの身体と関連づけて定義される。この場合にわたしの身体とは、絶対的な所有であることそのことによって、いかなる意味でも所有ではありえなくなるものである。所有とは、何ものかが自分の意のままになるということ、何ものかに力を及ぼしうるということである。このように何ものかを意のままにできるということ、あるいはここで行使される力には、明らかに、つねに有機体が干渉している。ここでいう有機体とは、まさにそのような干渉によって、「わたしはそれを意のままにできる」と言えなくさせるようなものである。そして、わたしが事物を意のままにすることを可能にしてくれるその当のものが、現実にはわたしの意のままにならないという点、まさにこの点に、おそらく、不随性〔意のままにならない〕ということの形而上学的な神秘が見てとれるのであろう。(マルセル『存在と所有』)

所有とはなにか、改めて考え直させる切り口である。

ところで、鷲田清一氏の次の一節は、すごく気が利いている。

 ひとはじぶんでないものを所有しようとして、逆にそれに所有されてしまう。より深く所有しようとして、逆にそれにより深く侵蝕される。そこで人びとは、所有物によって逆規定されることを拒絶しようとして、もはやイニシアティヴの反転が起こらないような所有関係、つまりは「絶対的な所有」を夢みる。あるいは逆に、反転を必然的にともなう所有への憎しみに駆られて、あるいは所有への絶望のなかで、所有関係から全面的に下りること、つまりは「絶対的な非所有」を夢みる。専制君主のすさまじい濫費から、アッシジのフランチェスコや世捨て人まで、歴史をたどってもそのような夢が何度も何度も回帰してくる。ひとは自由への夢を所有による自由へと振り替え、そうすることで逆にじぶんをもっとも不自由にしてしまうのである。

捨聖一遍を、「絶対的な非所有」を夢みる者として捉え直してみる。